いまいち内容を理解しきれないまま読み進めて終章。最後に「男の自己嫌悪」として、女性が感じるミソジニーである「女の自己嫌悪」の男性バージョンについて論じています。
ここで多用されるのは、「草食系男子の恋愛学」で有名な森岡正博の引用をもとに男の自己嫌悪について論じています。そのうえで男にも自己嫌悪はある。そのとおりだろう。だがそれにも二種類の自己嫌悪がある。一つには自分が男であることへの。もうひとつは自分が十分に男でないことへの。(p268)
しかしながら、本書では「男性の自己嫌悪」についてはあまり深く触れられておらず、書かれていることも正直要領を得ていない。個人的に一番興味をそそられるところが「回避」されており、大いに不満です。
そんな消化不良気味の「男性の自己嫌悪」ですが、本書の概念に加え「ミソジニー」の対義語である「ミサンドリー(男性嫌悪)」という単語を使うことで、下表のように考える事ができます。
男性 | 女性 | |
ミソジニー | 女性嫌悪 | 自己嫌悪 |
ミサンドリー | 自己嫌悪 | 男性嫌悪 |
身体の安全を省みない無謀さや勇気(p269)という言葉で説明される他者および自己身体への暴力的な関係であり、
身体への過度の配慮は「怯懦」「女々しさ」「懦弱」など、「男らしさ」の欠如と見なされる(p270)。とあります。しかし、そんな「男性性」を、女性は嫌悪し続けているのでしょうか?
上野は、森岡正博がいう「フェミニズムの持つ男性存在否定のメタメッセージは拒否しなければいけない(p271)」
というフェミニズム批判を「誤解しないでほしい。フェミニズムが否定しているのは「男性性」であって、個々の「男性存在」ではない。(p271)
という表現を使い、誤解を解こうとしています。上野千鶴子はこんな上目遣いの表現をする人間だと意外に思ったのですが、しかしながらフェミニズムが目指すとおり、当の女性は等しく「男性性」を否定しているのか?また「男性性の否定」を期待しているのか??そんな事は無いでしょう。
そう考えると、やはり上野が振り回すフェミニズムは、実態が伴わず女性からの支持を得ていないシロモノ以上の何ものでもないと誤解してしまいます。
ここから先の文章は、「男の自己嫌悪」という章立ての割には「ミソジニー」と「ミサンドリー」を取り違えているような訳の判らない論評が続きますが、我慢して最後まで読み続けていると、最終ページで、杉田俊介の発言を長く引用して
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